
2026年2月13日
2026年1月号、小田泰子さん(元眼科医)
師走に入ってすぐに、図書館に珍しいお客様がいらっしゃいました。
「久しぶりね。九十になったわよ」。
こちらが、おいくつになられましたかと聞くことを予測して先を越された格好の挨拶でした。
小田先生と最初にお会いしたのは、仙台市医師会が五十年の記録を残すことになった編纂会議の席上でした。吉田秀一・長池博子・加藤俊和・梅林宏正・鬼怒川博久・小田泰子という、仙台でご活躍の錚々たるメンバーが編集委員で、私は編集者として先生方に執筆のお願いをする役割でした。この中で毎回編集会議に足を運ばれたのが長町の小児科医・梅林宏正先生と八幡町の眼科医小田泰子先生で、とても熱心に取り組まれ仙台市医師会史二十世紀の歩み《B5判八百頁》が完成したのは二〇〇〇年のこと。
それから、交流が途絶えていました。でも、コロナ流行の初期に、仙台市歴史民俗資料館で「近代日本の感染症 仙台のスペイン風邪」という講演があるというので、興味があった私は史料館に出向きました。すると、小田先生と再開。「スペイン風邪流行とその時代」を執筆した、いわば専門家の小田先生が、この講演で何を聞きに来られたのだろうか?先生は、常に探究しておられるのだなぁと思っていました。
「正しく恐れ 行動冷静に」
その後、河北新報でもコロナの関連で「スペイン風邪流行と河北新報」のタイトルで小田先生にインタビューしており、先生は「正しく恐れ 行動冷静に」と話され「過剰反応せず、公表された数値を勘案して、正しく恐れる必要がある。感染症は災害と同じで、自分や大切な人の命、財産が奪われ、チャンスを失う。ただ人類はペストからさえ生き延びており、一人ひとりが感染予防に気をつけていれば、当時のようにはならない」と百年前の流行と現代との違いを指摘されていました。
先生は二〇二一年三月に眼科医院を閉院されましたが、先生が患者さん向けに三十年近く発行していた「医心伝信」を一冊の本に纏めてほしいとの依頼を受け、再び先生との交流がありました。でも、その仕事が終わってから、すっかりご無沙汰していたというわけです。
そこで先生に質問?
お元気ですね。何かやってますか。
「現代の人は鉄分不足。鉄瓶に水を入れて、それを飲むようにしているの。寝る時もベットのそばに鉄瓶の水を用意しておいて、ストローで飲んでいる」
他には?
「囲碁。県庁裏手にある碁会所に、週二回バスで通っています。その日は一日六千歩くらい歩くかしら」
他に?
「半日のリハビリ週一回、主に運動しています。それくらいかな」
という小田先生の日常ですが、後日訪れた先生の書斎は、専門書の山、大きな机に、書きかけの原稿がチラリホラり、今も相当頭をつかっているようでした。もちろん、鉄瓶のお水をご馳走になりました。
小田泰子(おだやすこ)先生
昭和十年北海道美唄市に生まれ、北海道大学医学部卒業。仙台市青葉区八幡で小田眼科医院を開業。診療を続けながら東北大学大学院国際文化研究科を修了し、平成十年、国際文化交流論専攻の博士(国際文化)第一号を授与される。平成十八年日本女医会会長。会長時代にアラブの女性団体(シリア・ヨルダン・エジプト)との交流会を行った。平成二十三年日本女医会吉岡弥生賞受賞、平成二十九年瑞宝双光章を受章。
著書に「種痘法に見る医の倫理」「医師ヘボンとその時代」「スペイン風邪流行とその時代」「医心伝信」「我が愛する故郷北海道」など。
2026年2月号、大槻七郎さんの「恒心に生きる」について
大槻七郎さん「恒心に生きる」
昭和五十六年三月一日、知事選の結果、山本壮一郎氏が当選。山本知事四期目の登庁がテレビニュースで流れる中、サンケイ新聞仙台総局では、スクープと言っていいのか、「それは本当か、大槻副知事の任期は六月までと聞いていたのに、三月で辞めるのか?」と、ざわめいていた。
誰もが大槻副知事の任期満了前の辞任は考えられなかった。私(筆者)もである。実は六月に大槻氏が副知事を退任したら、サンケイ新聞では「大槻七郎の県庁生活四十六年間」の連載記事を掲載する予定でいた。田中デスクは私に「いいか、つまり、大槻さんは、太平洋戦争の戦前・戦中・戦後の県庁の動きを逐一メモに残している。これを聞きだすんだ」と。
伊藤総局長は「手伝うからね」と。この強引な言いかたの中にも、計画では六月の退任後の新聞連載という予定であった。三月の退任で、ちょっと予定が狂ったといわざるを得ない。私は五千円で買った中古の自転車で、大槻家とサンケイ新聞をほとんど毎日往復して、記事を書くことになった。
昭和五十六年六月十日から昭和五十七年二月まで百二十一回の囲み記事。大槻家では、年代など判明しないものについては、冨美子夫人が「お父さん、これじゃありませんか」とアドバイスしてくれた。そこには、ほんとに穏やかな夫婦の会話があって、微笑ましかった。激動の時代を生きた県庁職員の見本であり、県庁の生き字引の語る県政史。思い出は多いが、戦時下で知事となった丸山鶴吉。近寄ることもままならない大物の机を掃除していたら、一枚の紙がハラリと落ちた。重要なメモかも知れないと片付けにかかったら「オレの秘書、大槻七郎」と書いてあった。早く名前くらい覚えてほしいと思っていただけに涙が出るほどうれしかったと言いながら涙をにじませていた。
他にやはり三浦義男知事、高橋進太郎知事、山本壮一郎知事とのやりとりが面白い。約九カ月の長丁場だったが、取材に応じてくれた誰もが「大槻さんのことだったら協力するよ」といってくれたのが印象に残る。
大槻 七郎さん 明治四十四年伊具郡東根村に生まれ、角田中学校、東北学院高等部を卒業後宮城県庁に入り、税務・教育・人事などの分野を歩き、民生労働部長・教育長・総務部長・出納長を経て昭和四十四年六月、山本壮一郎知事一期目に県庁生え抜きの副知事となり、昭和五十六年三月退任まで三期。副知事退任後は日本赤十字社宮城県副支部長、漁業無線公社理事長、宮城県開発公社会長、県社会福祉協議会会長として福祉活動に貢献した。昭和六十三年一月没 享年七十六歳
2025年12月号に、京極昭さん(元河北新報常務・ベガルタ仙台社長)の思い出を書いた。以下の青字部分。
その反響は大きかった。「アメリカに取材記者としての留学を可能にしてくれた人だった」「家族思い」「120度といわれていたが働いた人」「仕事ができた」などなど。多くは元河北新報記者の方々からのものが多かったが、年賀状に書かれた感想や正月にお会いした人からは、地元の女性と結婚したはずだという話も寄せられた。それほど記憶に残る人だったのだと、改めて思う
「京極 昭さん」
今思うも「よくわからない」の一言しかいえない。
昭和五十三年春、筆者(瀬戸)は仙台市内に市民一筆運動を掲げたタウン誌「けやきの街」を創刊。事務所は家具の街のケーキ屋「メゾンド・パティシェール」の喫茶室の奥の椅子。ケーキ屋さんのおなさけで、居候していた。そこへ、河北新報の人が訪ねてきたという。不在だったので、ケーキ屋のおじさんが、名刺をあずかっていてくれた。
これはきっと、タウン誌の取材に違いないと喜んで、河北新報の名刺の人物を訪ねた。受付の前に現れたのは、ちょっと偉そうなおじさん。
「ちょっと来なさい」えっ、怒られるの。そんな雰囲気だった。そして「雑誌を発行するなんて、たいてい三号で終わってしまう。金がかかる。キミは書けそうだから河北でアルバイトをしなさい」。
そう言うと、ついてこいとばかりに、ざわざわと話声が飛び交う、ピーっと驚くような音のする新聞社の中に、入って行った。外務部のトップの石川都通さんの前に連れて行くと、「名刺、作ってやれ」と、そう言うと、さっさと行ってしまった。
「あのー、どういうことですか」。
石川さんは「あれ聞いてないか。新聞は報道記事の外に記事体広告がはじまるんですよ。外務部で扱いますから、その記事を書くということですよ」。
そんなことで河北新報に出入りせざるを得なくなったが、上司となった石川都通さん(八木山緑町)は東大在学中に「東大ポポロ事件」の先頭を歩いた一人。大学に入学し演劇に入ったら、行進するからついてこいといわれ、参加したら捕まったという思い出をよく話してくれた。訳の分からないうちに人は多くの経験を積むと教えてくれたのか。記憶力が抜群で、文章がうまい。外務部にいるような人ではないが、やはり「ポポロ事件」が尾をひいているのかもしれない。でも、あのおじさんとはうまがあい、ツーカーの仲なのかと思ったし、意図的に私の上司にしたのか、とも思った。
こうした経緯があり、筆者が出版する本の祝賀会の案内をすると、京極さんは必ず来てくれた。入口で片手を上げるだけ、ニコッともしない。けれど、喜んでいる様子はわかった。誰かが「京極さん、喜んでいたよ」と伝えてくれた。論説委員をしていた一條昭六郎さんの本を筆者が装丁し作った時も「京極さん、表紙の出来がいいとほめていた」と伝えられた。何かにつけて気にかけていてくれたとは思うが、じっくり話した記憶がない。「やっ」と片手をあげて、さっさと消える、偉そうなおじさん。
どんな人だった。東北学院大学広報誌、学長との対談を見ると次の談話(編集局長時代)がある。
植物人間へ医療の手、愛の手 ノースパイク社会へ
「地方紙からの発信で、日本全体に大きな転換をもたらしたキャンペーンを行えたことを誇りに思っている。その一つは遷延性意識障碍者(脳の損傷が原因で長期間意識が戻らない状態=植物人間)への医療の手、愛の手を差し伸べるという救済活動が実ったこと、これは日本新聞協会賞をいただいた。もう一つは編集局長時代に、東二番丁通りのほこりがひどくて、堪えがたいという一通の投書がきっかけで始めたスパイクタイヤ追放運動。この運動によってスパイクタイヤ製造が法律で禁止され、全国的にもノースパイク社会になりました。これらのことから市民と共に生きることがジャーナリストの最大の使命ではないかと考えている」。